周囲に立つ竹柏、杉の太い幹等、頭上には森がふかく、遠くに空を感じるばかりである。山鳩がばさばさ羽音荒く飛び立つた。そこへ小鹿を連れた鹿の一群が近づいて来て苔を喰べたり、後肢で立つて小枝をピシツと折つてみたりする。小鹿は嬉しくて遠く駆けまはるので、母鹿ははらはらして、私を横眼に要心するのであつた。雄鹿同士は、すぐ角を合はせて立ち上つたり、とかく荒つぽい。すこし恐しくなつたとき、どうしたのか一匹の鹿が駆け出すと、小鹿も母鹿もみんなあとを追つて行つてしまつた。
 私は句のやうなものをいくつか手帳に書きためて立ちあがる。これなり帰るのも惜しく、偶々出会つた木の実とりの子供達についてゆく。長い竹竿を持つてゐて、椎の繁みをたたいてまはるのである。椎の実は一寸見ただけでは眼につかないが、ここぞと思ふところをうつとぱらぱら落ちて地面にはづむ。私も面白くなつて手伝つて、椎の実を分けて貰つて喰べた。象牙のやうに尖つた白い膚、甘い生々しい柔かさ、森の実の味である。

 さういつて私達は、乾ききつた熟麦の中へ入つて行つた。ひらひらと白い蝶が飛んでゐる。そこには主人の農夫と息子がゐる。久留米ガスリのモンペを着けてゐるのは、若嫁だと思はれた。人々は強い風にゆれる麦を掴んでは鎌を入れる、そして大地に横たへる。そのさくさくといふリズムはかなりゆるやかである。
 私ならばどうであらう。おそらくこの二倍の早さで刈ることだらう。そしてもうそれだけで息もつけないほど疲れ果ててしまうだらう。私は何をするにもせかせかといそがしい。いそがず怠らず――それは私にとつてなんとむづかしいことだらう。
 すこし離れた山際に老爺が一人ゐる。近づくと、大地に腰をつけんばかりにかがんで麦を刈つてゐた。ヒバリの声がしきりにする。低い宙で翼をふるはせながら鳴きしきつてゐるのである。老人はその声になぐさめられ、怠らず麦を刈りつづけてゐた。

 旅をしただけに芭蕉のこの句は、自己流に解し満足しているが、もとより、その解しているとはカンの働きで、それとは科違うがおよそ私に於ては過去も現在も恐らくは将来も、頭から終いまですべてこれカンの働きに始り終るものとし、カンの利かなくなったとき、私の作家生活は死去を告げるものと信じている。
 むかし俳句を少し許りやったときの先達は、山本蕗庵、庄司瓦全、伊藤御春たどの諸氏で尻馬にのせてもらった私は、俳諧の本など一冊も読んだことがなく、『猿蓑集』というものがあることすら知らなかった。それでも俳句会でちょいちょい入選し、故巌谷小波撰で首席にはいったことなどがある。そのころの句で今わかっているものは次の二句だけだ。

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