泉 鏡花の作品

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「――昨年、能登の外浦を、奥へ入ろうと歩行きました時、まだほんの入口ですが、羽咋郡の大笹の宿で、――可心という金沢の俳人の(能登路の記)というのを偶然読みました。
 寝床の枕頭、袋戸棚にあったのです。色紙短冊などもあるからちと見るように、と宿の亭主が云ったものですから――」
 小山夏吉が話したのである。
「……宿へ着いたのは、まだ日のたかい中だったのです。下座敷の十畳、次に六畳の離れづくりで、広い縁は、滑るくらい拭込んでありました。庭前には、枝ぶりのいい、大な松の樹が一本、で、ちっとも、もの欲しそうに拵えた処がありません。飛々に石を置いた向うは、四ツ目に組んだ竹垣で、垣に青薄が生添って、葉の間から蚕豆の花が客を珍らしそうに覗く。……ずッと一面の耕地水田で、その遠くにも、近くにも、取りまわした山々の末かけて、海と思うあたりまで、一ずつ蛙が鳴きますばかり、時々この二階から吹くように、峰をおろす風が、庭前の松の梢に、颯と鳴って渡るのです。

「そんな事があるものですか。」
「いや、まったくだから変なんです。馬鹿々々しい、何、詰らないと思う後から声がします。」
「声がします。」
「確かに聞えるんです。」
 と云った。私たち二人は、その晩、長野の町の一大構の旅館の奥の、母屋から板廊下を遠く隔てた離座敷らしい十畳の広間に泊った。
 はじめ、停車場から俥を二台で乗着けた時、帳場の若いものが、
「いらっしゃい、どうぞこちらへ。」
 で、上靴を穿かせて、つるつるする広い取着の二階へ導いたのであるが、そこから、も一ツつかつかと階子段を上って行くので、連の男は一段踏掛けながら慌しく云った。
「三階か。」
「へい、四階でございます。」と横に開いて揉手をする。
「そいつは堪らんな、下座敷は無いか。――貴方はいかがです。」
 途中で見た上阪の中途に、ばりばりと月に凍てた廻縁の総硝子。紅色の屋号の電燈が怪しき流星のごとき光を放つ。峰から見透しに高い四階は落着かない。
「私も下が可い。」

「蟹です、あのすくすくと刺のある。……あれは、東京では、まだ珍らしいのですが、魚市をあるいていて、鮒、鰡など、潟魚をぴちゃぴちゃ刎ねさせながら売っているのと、おし合って……その茨蟹が薄暮方の焚火のように目についたものですから、つれの婦ども、家内と、もう一人、親類の娘をつれております。――ご挨拶をさせますのですが。」
 画工、穂坂一車氏は、軽く膝の上に手をおいた。巻莨を火鉢にさして、
「帰りがけの些細な土産ものやなにか、一寸用達しに出掛けておりますので、失礼を。その娘の如きは、景色より、見物より、蟹を啖わんがために、遠路くッついて参りましたようなもので。」
「仕合せな蟹でありますな。」
 五十六七にもなろう、人品のいい、もの柔かな、出家容の一客が、火鉢に手を重ねながら、髯のない口許に、ニコリとした。