泉 鏡花の作品 その3

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 雨が、さつと降出した、停車場へ着いた時で――天象は卯の花くだしである。敢て字義に拘泥する次第ではないが、雨は其の花を亂したやうに、夕暮に白かつた。やゝ大粒に見えるのを、もし掌にうけたら、冷く、そして、ぼつと暖に消えたであらう。空は暗く、風も冷たかつたが、温泉の町の但馬の五月は、爽であつた。
 俥は幌を深くしたが、雨を灌いで、鬱陶しくはない。兩側が高い屋並に成つたと思ふと、立迎ふる山の影が濃い緑を籠めて、輻とともに動いて行く。まだ暮果てず明いのに、濡れつゝ、ちらちらと灯れた電燈は、燕を魚のやうに流して、靜な谿川に添つた。流は細い。横に二つ三つ、續いて木造の橋が濡色に光つた、此が旅行案内で知つた圓山川に灌ぐのである。
 此の景色の中を、しばらくして、門の柳を潛り、帳場の入らつしやい――を横に聞いて、深い中庭の青葉を潛つて、別にはなれに構へた奧玄關に俥が着いた。旅館の名の合羽屋もおもしろい。

 番茶を焙じるらしい、いゝ香気が、真夜中とも思ふ頃芬としたので、うと/\としたやうだつた沢は、はつきりと目が覚めた。
 随分遙々の旅だつたけれども、時計と云ふものを持たないので、何時頃か、其は分らぬ。尤も村里を遠く離れた峠の宿で、鐘の声など聞えやうが無い。こつ/\と石を載せた、板葺屋根も、松高き裏の峰も、今は、渓河の流れの音も寂として、何も聞えず、時々颯と音を立てて、枕に響くのは山颪である。
 蕭殺たる此の秋の風は、宵は一際鋭かつた。藍縞の袷を着て、黒の兵子帯を締めて、羽織も無い、沢の少いが痩せた身体を、背後から絞つて、長くもない額髪を冷く払つた。……其の余波が、カラカラと乾びた木の葉を捲きながら、旅籠屋の框へ吹込んで、大な炉に、一簇の黒雲の濃く舞下つたやうに漾ふ、松を焼く煙を弗と吹くと、煙は筵の上を階子段の下へ潜んで、向うに真暗な納戸へ逃げて、而して炉べりに居る二人ばかりの人の顔が、はじめて真赤に現れると一所に、自在に掛つた大鍋の底へ、ひら/\と炎が搦んで、真白な湯気のむく/\と立つのが見えた。
 其の湯気の頼母しいほど、山気は寒く薄い膚を透したのであつた。午下りに麓から攀上つた時は、其の癖汗ばんだくらゐだに……

 へいげんというは東京……学校の御雇講師にて、富豪をもって聞ゆる――西洋人なるが、毎年この別荘に暑を避くるを常とせり。
 館内には横浜風を粧う日本の美婦人あり。蓋し神州の臣民にして情を醜虜に鬻ぐもの、俗に洋妾と称うるはこれなり。道を行くに愧る色無く、人に遭えば、傲然として意気頗る昂る。昨夕へいげんと両々手を携えて門前を逍遥し、家に帰りて後、始めて秘蔵せし瑞西製の金時計を遺失せしを識りぬ。警察に訴えて捜索を請わんか、可はすなわち可なり。しかれども懸賞して細民を賑わすにしかずと、一片の慈悲心に因りて事ここに及べるなり、と飯炊に雇われたる束髪の老婦人、人に向いて喋々その顛末を説けり。
 渠は曰く、「だから西洋人は難有いよ。」
 懸賞金百円の沙汰即日四方に喧伝して、土地の男女老若を問わず、我先にこの財を獲んと競い起ち、手に手に鎌を取りて、へいげん門外の雑草を刈り始めぬ。